2022年9月10日(土)朝日新聞夕刊一面
「RIKKIOに憧れて」
野球部 陸前高田で教室開き10年
東日本大震災で大きな被害を受けた岩手県陸前高田市で、立教大学野球部が毎夏、小中学生向けの野球教室を続けている。震災から11年半を迎える今夏、かつて部員の背中を追った1人の青年が、あこがれのユニホームに身を包み、支える側に回って故郷のグラウンドに立った。
(宮脇稜平)
かつての生徒、今は教える側に
「こっちの方が球を捕りやすいでしょ」「いいね、足がスムーズに動いている」
津波が押し寄せた、その跡地に立つ「奇跡の一本松球場」。8月上旬、4年で内野手の蒲生潤さん(22)が、中学生約30人が参加した教室で捕球のコツを教えていた。自身もかつて指導を受け、「RIKKIO」のユニホームに憧れた。だからこそ熱が入る。
「夢や希望をもってプレーしてほしい」。そう願うのは、目標を追うことで前に進めた経験があるからだ。
2011年3月11日、陸前高田市立広田小学校4年生だった。授業中に強い揺れに襲われた。避難するよう告げられ、高台に向かう途中、津波にのみ込まれる街が見えた。自宅は津波の被害を免れ、家族も無事だった。ただ、週6日練習し野球を中心に回っていた生活が一変した。
学校は約1ヶ月後に再開したが、グラウンドに仮設住宅が建った。「もう野球はできない」。諦めかけていたとき、保護者たちが畑にグラウンドを作ってくれた。右翼が狭く、すぐにボールは外の田んぼへ。それでも、夢中で球を投げ、バットを振った。「このときばかりは震災のことが心から消えていた」
立教大学野球部に出会ったのは中学のときだ。大学生の大きな背中と遠くまで飛ぶ打球。「立教大で野球やろうよ」の一言に心をつかまれた。「うまくなりたい」と漠然と思っていたが、立教大で野球をすることが目標になった。
根こそぎ流された街は復興に時間がかかり、中学と高校在学中は校内のグラウンドで練習できなかった。主将を務めた高校3年夏の岩手大会は4回戦で敗退。でも、自分に夢を与えてくれたような存在になりたくて、目標はぶれなかった。
19年に立教大に進み、野球部に入部。埼玉県新座市の寮で生活し、1年時は午前5時に起きて練習の準備をした。授業を挟み1日何度も練習がある過酷な毎日。「野球ができるのは当たり前じゃない」と痛感していたから乗り越えられた。
1年の夏は、陸前高田市の野球教室に希望して参加した。コロナ禍による中止を挟み、4年になった今年、参加できるのは一番上のAチームだけに。蒲生さんはBチームだったが、成長を期待する溝口智成監督から「補助として来ないか」と声をかけられた。
野球を楽しみ、「どうすれば長打が打てますか」と素直に質問する中学生。競争で自信を失い、重圧を感じていた自分は「無理やり野球を楽しもうとしていた」と逆に教えられた。肩の力が抜け、Aチームに戻れた。
卒業後は、岩手県内の金融機関で働く予定だ。故郷の復興は道半ば。被災地の企業に融資を通して貢献したい。「人生の中心は震災と野球だった。教室を通じて、復興に関わりたい思いが強くなった」。次の目標もぶれずに追うつもりだ。
互いに学び
立教大学野球部が陸前高田市で教室を初めて開いたのは、震災から1年4ヶ月後の12年7月。夏の甲子園出場経験がある市職員の村上知幸さん(52)が、交流のあった立教大に依頼した。「野球をしているときは悲しい思いを忘れられる。そういう時間が子どもたちに必要だと思った」と語る。当時、野球部の部長だった立教大名誉教授の前田一男さん(67)は、家族を亡くした子どもが参加する可能性があり、部員らにどんな配慮をするようにつたえればいいのか悩んだ。
だが、すぐに杞憂だったと気づく。子どもたちも部員もひたむきに球を追い、被災体験の有無による壁を感じなかった。「野球をする中で関係はフラット。困難な背景をいったん置いておける場だった」と語る。
例年約20人の部員が参加するが、「奇跡の一本松球場」が完成して初の今年は、約2週間の合宿も加わり約40人に。教室はいまも、部員にとって、野球ができることが当たり前ではないと気づく場で、子どもたちにとって、野球の楽しさを再発見できる場だ。「互いに学びを得られる関係であり続けてほしい」