2016年03月

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3月31日(木)



皮剥けば銀線一本サヨリかな



朝はまだ三分咲きだった桜が、帰りには満開近くになっていました。

魚屋ではチャーリーが体調を崩したため、Iさんを呼んで丼作りをやってもらいました。

Iさんは慣れてきたらしく、丼作りが早くなりました。

私はサヨリの皮剥きをやりました。上手いと誉められました。

4月からバックヤードに冷蔵庫を置くのに料金が発生するとのことで、バックヤードにあった冷蔵庫やストッカーを店内に運び込みました。

狭くなりましたが、遠くまで取りに行かなくてもよくなりました。

バックヤードは屋根はありますから雨ざらしということはないのですが、荷物の搬入搬出でシャッターがいつも開きっぱなしのことが多くて風にはさらされているので、赤錆が結構出ていて、赤錆をとるステンレス磨きが大変でした。

右腕がすぐ疲れるので、ときどき左手で磨いたりしながら。

地獄みたいな作業を少しでも楽しくするために、

「おばあちゃんのシミ取りは大変。でも諦めちゃダメ。時間をかければ絶対にきれいになりますからね」と冷蔵庫に話しかけながら磨きました。

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3月30日(水)の2


昔は蒸気機関車だったので、煙の害を嫌がって町中に駅を作らずに、町外れに駅を作ったので、駅から町まで結構歩きます。

実は昔はここら辺りの一番大きな町は猿橋だったそうですが、富士急の乗り入れを拒んだため、富士急乗り入れを受け入れた大月が一番大きな町になったのだそうです。

猿橋駅から名勝猿橋まで歩いて20分かかりました。

猿橋は急峻な渓谷にどうやって橋を架けたらいいか悩んでいた職人が、猿たちが空中ブランコみたいに、互いに助け合いながら渓谷を渡っている姿を見て思い付いた橋の架け方だそうで、他に類を見ないため、日本三奇橋に挙げられています。

日本三奇橋は、山口県岩国の錦帯橋と山梨県大月市の猿橋は決まっているようですが、三つ目は諸説あるようです。

三つ目の候補は、長野県の木曽のかけはし(桟)、徳島県祖谷のかずら橋、栃木県日光の神橋、富山県の愛本橋。

先日テレビで見た猿橋の話で知ったのですが、橋の下にお城の屋根みたいにたくさん小さな屋根が付いているのは、橋桁を雨風から守っているそうですが、見映え的にも素敵に見えますよね。

橋の下を流れる川は碧色でした。

橋のたもとの説明版によると、推古帝の御代、西暦600年頃、百済の志羅呼(しらこ)が、猿が藤蔓をよじ登りたくさんのさるで絡み合って渓谷を渡っているのを見て橋の架け方を思い付いた、とあります。

江戸時代には甲州街道の交通の要地でもありました。

昭和九年に新猿橋が完成してからは、官道としての長い生命は終わりましたが、その後も名勝地として大切にされてきました。

昭和58年着工、昭和59年8月完成の架け換え工事では、江戸時代の頃の大きさ、姿が復元されたそうです。

また、猿橋のたもとにある大黒屋という蕎麦屋の前に国定忠治の顔出し看板に書いてある説明によると、国定忠治が役人に追われて猿橋から飛び込み、合羽と三度笠を流して役人たちの目を引き、自身は川上に逃げて難を逃れたそうです。

国定忠治は実在の人物ですが、講談に描かれている人物像がどこまで虚構でどこまで本当なのか。

上州新田郡国定村に生まれた忠治はやくざの道に身を投じますが、いわゆる義賊で人々から愛されていたらしく、極悪非道の代官を殺めて役人から追われ、暫くは子分を引き連れて赤城山に立て籠り、いよいよそこも危うくなって、つてを頼って信州まで逃れ、その旅の途中で数々の美談を残し、上州に戻ったところを捕らえられて処刑されました。

この猿橋の大黒屋に国定忠治は数日滞在していたそうです。

猿橋の駅に戻り、そこからは一路我が家へと向かって帰途の旅につきました。

夜はゴスペルの練習。

3クラス合同練習で、久しぶりに会う人も多く、楽しく練習してきました。

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3月30日(水)の1



鴬の鳴く山里の朝に発つ



青春18きっぷ旅三日目は、当初は鳩ノ巣からまっすぐ帰ってくるつもりでした。

しかし、それだと運賃が2,000円未満で、青春18きっぷではなんだか損した気になってしまうのです。

夜何もなければ、甲府から身延線に乗って富士宮から東海道線回りで帰ってくる手もあるのですが、夜にゴスペルの3クラス合同練習があるので、そこまで遠くまでは行けないし、どこか桜の名所にでも行こうかとも思いましたが、そういえばつい先日テレビで猿橋をやっていて、甲州街道歩きでも立ち寄ったし、こどもの頃は何度も行ったのですが、久しぶりに猿橋を見に行ってみようかな。

ちなみに甲州街道歩きで猿橋に立ち寄ったのは、2010年5月25日でした。

震災前だったんですね。

震災前と後では、価値観も変わったし、やはり見に行こう。

せっかくだから、どこかでランチを。

となると、B-1グランプリで食べた大月おつけだんごを食べに行こう!

さて、その前に、はとのす荘のブレックファーストも大変美味しくいただきました。

携帯電話を充電していたこともあって、写真を撮らなかったのが残念です。

鳩ノ巣駅発9:37に乗って青梅で東京行き中央線に乗り、立川で高尾行きに乗り換え。

高尾で甲府行きに乗り換え、大月駅に着いたのは11:44。

トイレに行きたかったので探したら、富士急行線乗り換え口の方にあり、富士急乗り換え口は外国人観光客で溢れかえっていました。

外国人の富士山人気の凄さを感じました。

トイレで並んでいるときも、いつもなら私は列の中で背が高い方なのに、今日は外国人が多くて私が埋もれてしまう!

さて、用事も済ませ、大月駅の外に出て、食べログで調べた「古民家麺処 かつら」を探したら、駅を出て左の方、すぐのところにありました。

その手前の店に、桔梗信玄餅プリンを売っていて、母に買って帰ろうと思っていたのですが、食後に電車出発までの時間がなく、結局買いませんでした。

さて、大月おつけだんごを食べるのが目的で大月に行ったのですが、入り口前におすすめメニューがあって、大月餃子もセットになった「月つきセット」というのがあったので、そのセットを注文しました。

春休みだからか、店内はいっぱいで、カウンター席に座りました。カウンターも満席一歩手前でした。

月つきセットは1,150円。おつけだんご、大月ぎょうざ、炊き込みご飯、香の物が付きます。

おつけだんごは単品だと630円。

大月の地味噌と麹味噌を合わせたみそ汁に大根、人参、ごぼう、しめじ等、野菜とよく練った小麦粉を小判型にした団子を入れ煮込んだ具沢山のみそ汁です。ヘルシーで昔懐かしい味。

味噌汁、とっても美味しい。大根はじめ煮込んだ野菜が美味しい。

小判型の団子は大きくてびっくり!

B-1グランプリで食べた団子は私の耳たぶぐらいでしたが、今日のは大黒さまの耳たぶぐらいで、食べ応えもありありです。

大月ぎょうざは初耳でした。もちが入った餃子です。大月ぎょうざの単品は480円。幸運を呼ぶ「長寿村のゆず酢」で食べます。長寿村は隣の上野原市のゆずりはら(ゆずり原。ゆずり=木偏に岡と書く)。山奥の山村です。

大黒さまの耳たぶ団子に、餅入り餃子に炊き込みご飯。炭水化物ばっかりです。

大月ぎょうざはそれほど特徴的でもありませんでしたが、おつけだんごは好きな味です。

食べ終わって、慌ただしく電車に乗り、一駅乗って猿橋へ。

猿橋編に続く

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3月29日(火)の6


はとのす荘の夕食の続きです。

写真1はズッパ。
アサリのトマト入りクリーミーなスープソース 海老のラビオリ(中央の物)と共に

写真にはありませんが、本日の焼き立てパンは、桐生酵母パン全粒粉と、ライスファイン。

美味しくて二回もおかわりしてしまいました。

写真2はセコンド・ピアット。主菜、メインディッシュです。

セコンドって、二番目って意味だよね?一番目が気になりますね。

第一の皿、プリモ・ピアットはパスタ類だそうですが、本日の料理には、ズッパの中にラビオリが入っていたぐらいでした。

本日のセコンド・ピアットは、秋川牛のソテーマルサラ酒ソース 地場温野菜、奥多摩山葵オイルを添えて

スタンダードコースだと秋川牛は付きません。今回、グレードアップコースで秋川牛にしました。柔らかくて口の中でホロホロでジューシーで最高でした。

山葵オイルとありますが、山葵ソースです。何もつけなくても十分美味しいお肉でしたが、添えられた山葵ソースをつけると旨味が引き締まってさらに美味しい!

写真3は、ドルチェ。グラサージュ&プチ抹茶ムース いちごのパンナコッタ 赤葡萄のソルベ フルーツと共に


グラサージュは、本来の意味は「糖衣をかけたもの」ですが、この場合はチョコでコーティングしたお菓子です。

ソルベはファミレス時代にさんざん扱ってきました。シャーベットですね。

赤葡萄のソルベは、よく出てくるカシスより刺激が少なく、万人受けするソルベだと思いました。

コーヒーか紅茶かハーブティーが選べたので、ハーブティーが何か聞いてみたところカモミールだというので、ハーブティーにしました。

カモミールはリラックス効果があるので。

さて、29日のお話はここまで。

30日の旅の四日目(青春18きっぷ旅の三日目)に続く

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3月29日(火)の4


青梅駅のもうひとつの待合室がこちら。(写真1)

中の様子が写真2。ステンドグラスが使われています。中には近隣の観光パンフなどが並んでいました。

こちらの待合室の壁には、写真3の大きな映画のポスターが貼ってありました。

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