1月7日(火)の56 

14:18   落合の石畳案内板
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案内板
「     国史跡 中山道 
               平成22年2月22日追加指定
                  落合の石畳

 この石畳 は、中山道落合宿 と馬籠宿 の間にある十曲峠を歩きやすくするために、石を敷き並べたものです。

 石畳がいつ頃に敷かれたのかは不明ですが『中山道宿村大概帳』には『馬籠境(新茶屋)から中津川まで34町6間(約3.7キロメートル)、道幅2間から3間、尾州より普請』とあり、尾張徳川家がこの石畳を含む区間の中山道の維持管理を行っていたことがわかります。

 石畳の構造としては石畳の道幅約4メートルで、1平方メートルあたりに自然のままの濃飛流紋岩が4~6個使われています。石材の形や大きさはまちまちで一定ではないですが、石畳の両側端に石材の直線的な面を外側に並べ、一直線になるように配置されています。

 石畳の長さは約840メートルで、その間3ヶ所(径70.8メートル)の、石畳は往時のまま現存しています。その周辺の石畳についても昭和63年度~平成7年度『歴史の道路整備事業』にて修復がされ、中山道の風情を偲ぶことができる場所となっています。
                 中津川市教育委員会    」

箱根の石畳よりも、滑らないし歩きやすいです。

14:18   鐘鋳りの場跡(奥に馬頭観音) 
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案内板
「        鐘鋳り場跡

 宝永2年(1705)医王寺の梵鐘を鋳造した所から、このあたりは「かねいりば」とか「かねば」と呼ばれている。 」

石畳が終わり、写真のような里の道、といった風情の道を行きます。
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14:28   山中薬師 
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案内板
「      山中薬師 
            浄土宗瑠璃山 医王寺

當山はもと天台宗 の名刹として栄えたが戦国時代に兵乱にあい法燈は一時中絶したが天文十三年(1544)正誉存徹が再興し浄土宗に転じたという。本尊は薬師如来 で名僧行基 の作と伝えられる。
 又奈良時代聖武天皇 の御代諸国に疫病が流行したので勅命をうけた行基が各地を巡り薬師如来を刻んで安置し病気の治療法を伝授したと伝えられ之医王寺もその一つであると云い三河の国の鳳来寺、可児郡御嵩の蟹薬師(願興寺)と並んで三大薬師 の一つである。寺内には薬師如来のほか多くの仏像があり、さらに民間信仰の庚申等安置され往時の信仰の盛大さを物語っている。又医王寺は山中薬師とも呼ばれ古来より子供の虫封じの薬師として名高く人足が絶えない。境内には枝垂れ桜があり、(原木は樹齢三百年の大きなしだれ桜であったが昭和三十四年(1929)の伊勢湾台風で倒れたので今の木が二代目となる)毎年季節になると風雅な花を咲かせ街道を歩く人々の心をなごませたとされる。尚之木は木曽義仲 が京に上る途次手にした桜の枝を逆さに刺したものが根づいたと伝えられている。尚境内泉水のほとりに「梅が香にのっと日の出の山路かな」の芭蕉 の句碑があり、弟子を連れ馬の背にゆられて急峻な木曽路の山峡をどんな思いで旅を続けたのであろう。
落合宿 は中山道の一宿であるから大名や高貴な女性などの通行が多かった特に京都から江戸の将軍家に嫁入る場合等は東海道をさけて中山道を経由した 又善光寺詣りや御嶽講の連中などここから木曽路へ入る人々が旅の安全を祈願しに立ち寄った際には之山中薬師で家内安全 道中無事 無病息災を祈って旅立っていった。       」 


本日の57に続く