6月13日(木)の37


12:40   右折の場所
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電柱に矢印がありました。



12:42   明治の標柱
37

「津市元標へ拾里 三重郡富田町 239.0 24.5 24.0
右側   桑名郡桑名町大字桑名へ弐里弐拾町/員辨郡大泉原村大字楚原へ四里拾参町弐拾四間
碑陰   大正三年十一月三十日 三重縣
左側 四日市市大字四日市へ壱里八町 」

碑陰は、石碑の裏側です。


12:44   富田の焼き蛤の看板
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富田立場跡でもあります。

案内板
「       富田の焼き蛤

    富田は東海道五十三次の桑名宿と四日市宿の中間にある間の宿として栄え、西国大名の参勤交代などで賑わっていました。
『蛤の焼かれて鳴くや郭公(ほととぎす)』
この句は江戸時代に蕉門十哲のひとり、宝井其角が中町の旅籠尾張屋の店先で詠んだもので、その当時の句碑が記念碑となって富田浜に残っています。

『東海道中膝栗毛』では、七里の渡しを渡った弥次さん喜多さんが、『桑名につきたる悦びのあまりに、めいぶつ焼蛤で酒くみかわして』とされています。
実はこの焼蛤、小向(おぶけ=朝日町)と富田の名物でした。江戸の初めから出回っていた各種道中記(いまの旅行案内書)
のどれにも、焼蛤は桑名の名物として採りあげられていません。
『東海道名所図絵』でも、『名物焼き蛤―東富田・おぶけ両所の茶店に火鉢を軒端(のきば)へ出し、松毬(まつかさ)にて蛤を焙り旅客を饗す。桑名の焼蛤とハこれ也』と記されています。富田が当時、桑名藩領であったことから桑名の焼蛤となったようです。   」
 


本日の38に続く